でんえもんの歴史−事業の沿革

 明治維新のすぐあと、下館藩士で槍一筋といわれた永沼傳右衛門(初代)は上京し、娘婿の八三とともに浅草の金龍山下河原町(現在の浅草七丁目付近)に豆腐屋を創業しました。その時明治五年でありました。その当時大川端にあるリンゴ畑の豆腐屋として地元の人々に親しまれました。その時の豆腐の納品先として、有馬家下屋敷、明治の文豪宅等があります。
 始祖、傳右衛門から八三、忠次郎、忠雄、俊治と約百三十年の長きにわたって豆腐作りの技を、槍一筋の情熱によって高めてまいりました。そして平成十三年には足立区に最新の製造設備と最高の衛生設備を持つ新工場を設立しました。

でんえもんの歴史−歴代傳右衛門を五代目俊治が紹介

初代傳右衛門  永沼傳右衛門について

 茨城県下館、下館藩の下級武士。
聞くところによるとお蔵番(倉庫の番人)であったらしい。武芸に優れ、特に槍の使い手としてはかなり有名で、槍一筋の傳右衛門と言われていた。
しかし明治維新になり武家社会が崩壊したことにより生活ができなくなってしまった。多くの地方武士がそうであったように、傳右衛門もまた東京を目指し槍一本を肩に下館を後にした。

 下館から東京まで直線距離にして約80km、2〜3日で東京に着いたはずである。東京に着いたはいいが何のあてもない。とりあえず浅草の観音様にお参りをしたあと、言問橋のたもとにたどり着いた。薄汚れた身なりをして座りこんでいる傳右衛門をしばらく見ていた人物がいた。当時、金龍山下河原町(現在の浅草七丁目)で始まったばかりのリンゴの栽培をしていた男である。名前は不明。家業の豆腐屋のかたわら、リンゴの栽培に励んでいた。この男が座りこんでいた傳右衛門に声をかけ、身寄りもなく何のあてもないのならばうちの豆腐屋を手伝わないかということで豆腐製造の手ほどきをした。この男は豆腐作りを傳右衛門に教えた後、自分はリンゴ栽培に一生懸命になり豆腐屋は傳右衛門にまかせっきりにした。

 人間まかされればやらないわけにはいかない。一生懸命やっているうちに「リンゴ畑の豆腐屋」という呼ばれ方で近所では評判の店になった。その後明治時代後半まで金龍山下河原町で営業し、その後は隣町の今戸へ移り昭和になるまで2代〜5代目までのながきにわたり豆腐屋は続いている。



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二代目傳右衛門  永沼八三について

 初代傳右衛門のまさの娘婿で初代とともに家業の豆腐屋に励み、二男一女をもうけたが早くして亡くなる。長男清造も早く亡くなり、二男忠次郎が家督を継ぐことになる。



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三代目傳右衛門  永沼忠次郎について(五代目の祖父)

 忠次郎の妻つる(五代目の祖母)の話によると忠次郎は非常に厳格であった。来客があると少しの間待たせ、紋付羽織袴、いわゆる正装をして応対をしたそうである。

 四代目忠雄(五代目の父)の話によるとお説教をするときは1時間でも2時間でも正座をして足をくずそうとしない。お説教をされている忠雄は足がしびれてしびれて、足をくずそうものならすぐに拳が飛んできたらしい。たたかれるのはそれほど辛くはなかったが長時間の正座はとてもつらかったそうである。
そして野球が大嫌いで忠雄(野球少年)の野球道具をすべて燃やしてしまった。これには忠雄はかなり苦しめられたらしい。

 相当に厳格な忠次郎であったが昔のことで読み書きはできなかったそうである。しかし、できないにも関わらず豆腐業界の浅草支部の支部長を勤めていたそうである。
読み書きができないのになぜできたのか、それは妻のつるが女学校を出ていて、いわゆる読み書き算盤、踊り、三味線などができたからである。これがかなり忠次郎の力になったのであろう。



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四代目傳右衛門  永沼忠雄について(五代目の父)

 生まれは大正3年、背丈はそれほど高くはないが肉体的には非常に恵まれていて運動神経がすばらしくよくパワーもあった。足も速く浅草区代表として神宮大会(現在の都大会であろう)に出場したらしい。相撲も強く浅草地区で何回も優勝したらしい。

 特に熱中したものは野球で10代の頃はユニフォームを5枚も6枚も持っていて何チームにも所属していてエースであった。しかし父の忠次郎は野球が大嫌いで前述のとおりユニフォームやバット、グラブ、スパイクなど全てを、ある時燃やしてしまい野球ができないようにしてしまった。
しかし昔の下町らしく近所の人たちが協力してくれて豆腐の行商(天秤棒をかついで売り歩く)に出ると「豆腐はそこに置いて早く野球に行ってきな、アンタがいないと勝てないんだから」といってグラウンドに行かせてくれた。野球が終わり天秤を置いた家に行くと豆腐は全部からっぽ。売上も全部置いてあったということだ。

 忠雄の口から何度か聞いた話だが戦前に隅田グラウンドで当時のオール早稲田(当時プロ野球と比べ実力、人気ともに高かったため)と対戦をした。それも入場料をとっての試合であったそうだ。結果は9回裏まで0点におさえたが最後はスクイズで1点とられサヨナラ負けだったそうである。

 当時のオール早稲田と試合をするだけでも大変なことなのに負けたとはいえ1点におさえたというのはすばらしい。実際に忠雄の野球チームの写真は数多く残っている。
私の記憶では3年生のころ(忠雄は当時48歳)キャッチボールをしたが忠雄の投げるボールが速くて速くて取るのに非常に苦労した。しかもグラブをしていても手が痛くて痛くて忠雄とはキャッチボールをするのが嫌であった。

 戦後になり忠雄はプロ野球の道へ進みたかったが、父忠次郎はそれを許さなかった。結果的にそれでよかったと忠雄は晩年語っていた。



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五代目傳右衛門  永沼俊治について

 昭和27年4月30日生まれ。生まれたときのエピソードで母親が産気づいたときに母親は油揚げを作っていた。すぐ生まれてしまい産湯を沸かす時間が無く、豆腐を作る釜でお湯を沸かし、そのお湯で産湯を浸かった。

 小学4〜5年生くらいまでは身体があまり丈夫ではなくしょっちゅう医者通いをしていた。そのわりにはイタズラで友達とケンカばかりしていた。

 中学校では野球野球の生活、高校でも野球野球の生活。一浪をして大学に入り2年生の時に自転車で日本をほぼ半周。野球をしていたおかげで体力には自信を持っていたので日本を半周した結果出たこたえは「人の3倍も5倍もやれば人並み、またはそれ以上のものは得られる」である。

以来何につけても体力勝負にもっていく。しつこくしつこくしつこく‥めげない、負けない、あきらめない。多少時間がかかっても最終的にいい結果が出ればそれでよい。そのような考え方で今までやってきた。もともと豆腐屋というものは体力のいる仕事で、体力があったからこそ今まで何とか続けてこられたのだと思う。

 趣味は野球。現在51歳であるが現役プレーヤー。キャッチャー以外ならどのポジションでもOK。台東区軟式野球連盟所属のワイルドキャッツの監督、葛飾区マスターズ野球参加。

 次に登山、ハイキング。最近は体力的におとろえてきたので温泉ハイキングをもっぱらにしている。しかし5,6年前までは冬の3000m級の山々にアタックしていた。

 次にスキー。私のスキーはハッキリ言って上手くはない。でも転ばない。なぜか、山の中でザックを背負って滑っているときに転ぶということは死に繋がる可能性が高い。深い雪の中で重いスキーを操作するにはやはり体力。体力によって転ばないスキーを体得した。

 最後に意外と思うひとが多いのだが絵画である。描くことも観ることも好きである。
長男が保育園に通っている頃、親の作品展で似顔絵をかいたところ誉められたことがきっかけで、豚も誉めれば木に登るで、それから絵を少しずつ描くようになり、現在、妻が趣味でやっている有田焼のギャラリーで空いている壁を汚している。一度話のタネに観にきてください。

 もう一つ、落語がある。おもしろい落語をめざして稽古している。最近は老人介護施設にボランティアで演じている。実力は全国大会に2年連続出場している腕前である。